1926年(大正15年)の東京の風景 OLD TOKYO - about 100 years ago

丸の内、銀座、日比谷公園など。再生速度を倍にすると、動きが自然かもしれません。 丸の内は、赤レンガの荘厳な建物が多く、当時、「リトルロンドン」と呼ばれました。 ☆もし良かったら、チャンネル登録、いいねをお願いします。 0:05 「キリンビール」の文字(反対から読む) 0:13 看板に「朝鮮デー」と書かれているのは、博覧会の催し物。今でいう「⚪︎⚪︎フェア」。 0:50 恐らく安田銀行本店(旧富士銀行、現みずほ銀行) ※初代頭取は、安田財閥の安田善次郎(戦前は三井、三菱、住友、安田の4大財閥) →東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地は、善次郎の寄贈。 1:23 東京中央電信局(現存しない) ※山田守(まもる)によるパラボラアーチが特徴的な分離派を代表するモダニズム建築 3:00 恐らく三菱銀行本店 3:57 左:丸の内三菱2号館(ドーム屋根)と、右:東京商工会議所ビル 4:25 東京會館(左)と帝国劇場(右) 2:10 募金を募るキリスト教系団体の「救世軍」。今も“貧民救済“の団体として活動している。 映っている紙には、 「Keep the pot boiling(日々暮らせるようにしよう)」「Please help the poor(貧民を助けてください)」 「御同情を請ふ」と書かれている。 ※当時、日本では社会福祉制度が十分に整っていなかったため、キリスト教系の慈善事業が大きな力を持っていた。 →大正期は、YMCA、ボーイスカウト、「聖△△学院」など、キリスト教系の団体が日本に多く流入していた。 →同時に、日本の思想の強い宗教も広がりつつあった。(日蓮宗、大本教、生長の家など) →例えば、満洲事変を起こした軍人の石原莞爾(いしわらかんじ)等も、日蓮宗(国柱会・末法思想)の熱心な信者だった。 ☆日比谷公園の場所は、元々、陸軍の用地だった。 しかし移転のため、東京市に払い下げられ、世界に誇れる公園として活用することが決定された。 →日本初の“近代的な西洋式公園“、「日比谷公園」の設計は、学者の本多清六(ほんだせいろく)が担当した。 人物① 【本多清六(ほんだせいろく)】  本多 静六は、日本の林学者、造園家、株式投資家。 日本の「公園の父」といわれる。 苦学して東大教授になり、「月給4分の1天引き貯金」を元手に投資で、“巨万の富“を築き、大学定年退官と同時に全財産を寄付した。 孫に光触媒研究の本多健一がいる。 人物② 〜今の東京を作った人物 【後藤新平(ごとうしんぺい)】 後藤 新平は、岩手県出身の官僚・政治家。(元々は医師だった。)「都市計画の父」とも呼ばれている。 帝都東京を関東大震災から急速に近代的な都市へと復興させた。 ※
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